受験屋本舗さかた塾

2017年度尾道新規開校・東京大学現役合格講師による直接対面授業の難関大学専門塾

阪田健太郎ヒストリー 高校生編

高校生になって、あいかわらず英語ばかりやっていた。ボランティア活動やジャグリングなどにも手を出して、放課後がとにかく楽しかった。たくさん本を読んで、いろんな人と出会い、人生で最も社交的な期間だったかもしれない。大西泰斗先生や横山雅彦先生といった英語の神と崇め奉っている方の著作に出会えたのもこの頃だ。まさか参考書でわかりやすさに感激して涙を流すなんてことがあるとは思わなかった。おかげで実用一本だった僕の英語も文法や長文問題に取り組むための視座を持つことができた。学問の広さを知ることができた。今でも全著作を本棚の一番いい場所に置いてある。このお二方との出会いがなければ今の僕はいなかっただろう。

高2の終わり、そろそろ受験を考えなくてはいけなくなり、英語以外はポンコツだった僕は困り果ててしまった。英語の勉強がしたいから、 ICU(国際基督教大学)に行きたいなぁ、それか上智の比較文化(現在の国際教養学部)かなぁ、ほぼ英語だけでいけるし、と思っていたものの、私立で授業料も高いから家の事情的に難しい。そうなると国公立。東京外国語大学が国公立の英語系ではトップだからここに行きたい。でもここはセンターも2次も英語以外の科目もある。うーん。まぁ、受験勉強は始めなければならない。学校の授業はつまらないわからない眠いの三重苦でほぼ聞いていなかったため、塾に行かないといけない。経済的に塾に通うのは難しかったのだけれど、幸い進学校だったので、テストを受ければ特待生制度があるO州塾がある。なんとかテストを潜り抜けて塾に通うことができた。世界史のF元先生、日本史のK坂先生、化学のY崎先生、ろくでもなかった副科目が最終的に間に合ったのはここでの先生方のおかげだった。これまで何もわからなかった化学が世界史が日本史が、すっと整理できて納得できて、知ることの楽しさを再び取り戻した。一心不乱でノートをとった。とくに世界史のF元先生が大好きで、あんなにつまらなかった世界史が、何一つ理解できていなかった世界史が、がらっと姿を変えた。膨大な知識がロジカルに整理されていく興奮。数学だけは親に頼みこんで、代ゼミの西岡先生のサテラインを受けさせてもらった。これも圧巻だった。公式ばかりで何をどうすればいいのかわからなかった数学が、こんなに楽しいものだったなんて。こんなに奥深いものだったなんて。これらの授業は、とにかくすべてを吸収したくて、狂ったようにノートを取って、授業後に調べて書き足して、整理し直して、何度も何度も読み返した。深い霧に囲まれていたのが、ぱーっと晴れていくような感覚。納得して理解できて、問題もどんどん解けるようになっていく。勉強するってなんて楽しいんだろう。僕の職業はここで決定された。塾の先生になろう。こんな知的興奮を与えられるような授業をしよう。今でも授業をするときは、あの頃の自分が後ろで見ている。わくわくさせられているかな、と。一番厳しいジャッジがいつもそばにいる。あの憧れに追いつけているだろうか、あんな魔法を自分もかけてあげられているだろうか。

夏頃、学校の担任だったO橋先生から声をかけられた。「慶應の推薦があるんだけど、条件満たしてるのが他にいないから受けてくれないか」。授業中は英語読んでるかほぼ寝ている、という奔放な高校生活を送っていた僕をO橋先生は目をかけてくれていた。ボランティア活動やジャグリングや課外活動に精を出していた僕をいつもにこにこして見守ってくれていた。携帯電話を他の先生に没収されたときも、「要るんじゃろ、見つからんようにせえよ」と翌日返してくれた。うち受かっても行くお金無いっすよ、と答えたが、それでいいけえ、と笑って言った。学校推薦なので、まぁ順当に受かって、いざ一般受験となったときに、O橋先生は「東京外国語大学は単科大学で小さくて狭いから東大受けんさい」とこともなげに言った。いやいやいや、受かるわけないじゃないすか。「まぁ受からんかったら慶應行きんさい、奨学金もあるし」なるほど、そういう手もあるのか。たぶんそんなふわふわした感じで決まったような気がする。もうこの時から慶應に行く気満点だったのだ。慶應ボーイ。素晴らしい。

センター試験はめちゃくちゃうまくいった。職員室はなんで寝ているあいつが!みたいな騒ぎになったらしい(学校で受ける模試はめんどくさいから適当に済ませていた)。弟の代にもO橋先生によって語り継がれていたらしい。足切りの心配は無くなって、2次試験は普通にきちんと受けたけど(英語と国語は時間余ったから寝た)世界史日本史の論述対策も不十分だったし、数学も手応えなんかまったくなかった。だから合格発表の日も、日吉のガイドブックを見ていた。発表見て、慶應の申し込みをして、日吉で家を探そうと思っていたのだ。どうせ受かってないな、と確認するような思いで掲示板を眺めると、自分の番号があった。え?まじで?は?みたいな驚きがまずきて、そしてそのあと俺の慶應ボーイ計画が音を立てて崩れた。あまりにも落胆していたので、名物の胴上げにも声をかけられず、生協の案内も渡されなかった。親に報告の電話をすると、絶叫が返ってきたが、お先まっくらな僕はそっけなく返事を返しただけだった。進学校の嫌なところを見てきたので、もうなんかそういう勉強秀才が集まるところは嫌だった。嫌だったけど受かってしまったからには行かざるをえない。嫌味なようだが、本当に暗雲が立ち込めていたのだ。不動産屋へ行き、京王線という知らない路線を紹介され、仙川という場所で部屋を決めた。6畳の畳の部屋で、古い建物。マンションではない、アパートというよりは文化住宅に近い場所。そこそこ近くて安いところを探すとそういうところしかなかった。広島に帰ってきた。みんな喜んでくれた。O橋先生ももちろん喜んでくれた。結局今の僕があるのは、この大学選択のおかげみたいなところは確実にあるので(よくもわるくも)O橋先生には感謝をしてもし切れない。

中学受験以降、親との関係が悪くなっていて、家が大嫌いだった僕はなるべく早く家を出ることにした。3月末には引越しをして、東京に住むことになる。

このころには最高学府で学べることへの期待も出てきて、どんな学問が広がっているんだろう、とわくわくしていた。

引越した日は、3月末にも関わらず、例年になく寒くて、雪が降っていた。電気も水道もまだ通ってないまま、布団も届いてないまま、寒さに震えながら夜を明かした。ずっと夢だった、一人で牛丼屋にいくという偉業を達成した。大人の階段を一つ上った。寒くて眠れなくて散歩に出たら、駅前の桜が満開で、そこに雪が降っていて、幻想の中のような美しい景色がそこにあった。新生活の幕開けを神様が応援してくれているようだった。そのあと人生初の職質を受けた。大学名を言ったら態度が180度変わって、学歴の力を初めて体感した。

 

今でもあのときの不安とわくわくを覚えている。

これから何が待ち受けているんだろう。