受験屋本舗さかた塾

2017年度尾道新規開校・東京大学現役合格講師による直接対面授業の難関大学専門塾

ありがとう、ファンソン。みんな、きみのおかげだ。

 

いつかソウル・トレインに乗る日まで

いつかソウル・トレインに乗る日まで

 

 

高橋源一郎は泣ける。泣けるという言葉は好きじゃないのだけれど、泣ける映画を見に行く人はなんなんだ。泣きたいのかそうか。映画の音楽消したら全然違うものに見えた、みたいな話あるじゃないですか。活動弁士みたいなのがいる時代に生きてみたかったなあ。一度イベント的なもので見に行ったことがあるんですが面白かった。ああいうのは違った人がやれば露骨に違ったようになるんだろうなあ。ブレスの位置、間のとり方一つで、解釈は変わっていくもので。音楽がないは、音楽がないという音楽で、ジョン・ケージで、やはりそれもありのままではないのだろう。私たちの生活においても、自分が心に浮かべたスクリーンに映った心情を声という音楽にのせて話すわけで、それは自分のスクリーンに映ったものとはまるで違う映画に相手の中ではなっているのだろう。同じ映画を見てさえも同じ感情になることはないのに、まして違う映画を見て同じ感情になることはない。

僕たちが用いる言葉は輪郭がはっきりしているようで曖昧で、模糊としている。言葉の伝達の問題。私が思い浮かべたりんごと、あなたが思い浮かべたりんごはおそらく違うものでしょう。(僕はミッフィーに出てくるりんごを思い浮かべました。かわええやろ)抽象的な言葉であればもっとずれがあるだろう。私が思い浮かべた自由と、あなたが思い浮かべた自由は異なるもので、心情であればもっとずれる。私が思い浮かべた悲しみは確実にあなたが思い浮かべた悲しみではない。私が私の思う悲しいで発した「悲しい」という言葉は、あなたの中の悲しいという言葉の意味に変換されて、悲しいと受け取られる。我々には意思の疎通の主な手段は言葉しかないのだが、その言葉には誤解しか生まれない構造がビルトインされている。それはというと人間がそれぞれ別個のものであるからで、心情を共有できないからだ。私はわかる、という人も友達の落ち込みに対して「わかるよ」といったところでその「わかる」はあなたの「わかる」でその友達の「わかる」ではなく、その友達の「落ち込み」もあなたのものと同一の「落ち込み」ではないのだ。「大丈夫?」も「心配」も「辛かったね」も、共有しているようにみえるのは錯覚で、お互いにいびつなゲームを繰り返し歪な砂上の楼閣を築き上げているに過ぎない。だから私達は言葉を尽くして定義を尽くして対話を尽くして、いつか届くかもしれない手に入るかもしれない脳内の合同を求めてコミュニケーションを尽くしていくしかない。それが窮屈で、定義の曖昧なエモいとか卍みたいなのが流行るのかもしれない。とりあえず言っときゃなんとかなる。みたいなのはコミュニケーションの流通コストが少なくて済むし、お互いに何かを了解し合っている感じになる。コミュニケーションさえしていればいいのであればそれでもいいかもしれないね。同じ集団の中だけで伝わる言葉は楽しいもんね。お互いのお互いにだけ通じる言葉はロマンティックだものね。それはコミュニケーションをすること自体が目的化しているから。

余談だけれども、いわゆるレッテル貼りもこうしたコミュニケーションのコスト削減を狙ったもので、A型=几帳面、O型=おおざっぱ、双子座のあなた!クロヒョウのあなた!(懐かしい動物占い)、それは楽だしわかった気がしてわかられた気がして楽しいんだろう。マイノリティーのレッテルもある。LGBTが広まった現状において、だいぶマシになったとはいえ、「こういう奴らはどうせ〜だ」みたいなものを偏見といい「こういうやつらには〜してもいいんだ」みたいなものを差別という。型にはめると楽なんだ。人工的に作られた形のはっきりとした概念(それだって同じ解像度ではないだろうけれど)は共通理解がたやすく、楽なんだろう。かといってマイノリティーの権利を求めろ!差別やめろ!という話ではなくて、マイノリティー免罪符・マイノリティー通行手形みたいなのはあんまり好きじゃなくて、「〜だからといって差別をするな」、というところから「〜だから非難するのは間違っている」を経て、「〜だからどんな振る舞いをしても許される」みたいに何してもいいみたいになってくるのがよく見受けられるような感じがあり、なんだかなぁと思ったり。当然マジョリティー側から気を配ることは必要なことで、そんなのは相手がマイノリティーだろうがなんだろうが変わらず必要だけれども、マイノリティーだからといって努力をしなくていい開き直っていいというわけではなく、最大限の努力と気配りをするのが望ましくて、それは両者に必要なことで、その上でできないものは、お互いしゃあないですね、で済ませられるような世の中になればいいなぁ。マイノリティー問題に限らずのお話で、お互いに気を配り合うことができれば、コミュニケーションコストはそんなに気にならないのだけれど、一方が手を抜き始めると、途端にコストが爆上がりするように感じられて、何やってんだろな俺、となってしまうのでやってらんねぇな、と感じてしまう。

 

コミュニケーションの努力を尽くしたうえで、それでも了解し合えないものは仕方ねえなって笑って、おれこんなのできちゃったよ、って楼閣を見せ合えればいいのに。

 

最大限の努力と気配りをお互いにして、それで、うまくいかないね、仕方ないねって笑って。

お互いにさ。

そういう世界に僕は住みたいなと思うし、そのためならどんな努力だってするよ、と思っている。

うちの嫁はだいぶ長く一緒にいるけれど、ようやく言葉のすり合わせができて、だいたいのことは把握できるようになったけれど、それでもまだお互いに言い過ぎたり、配慮が足らなかったりするけれど、しゃあないね、って僕は心の中で笑えている。ほんとに笑うとバカにしているって怒るから。向こうはどうだかわからないけれど。笑ってくれてるといいな、と思う。

 

なんの話かというと、昨日うちの子が、部屋干ししてたタオルがほしいって泣いて、乾いてないから後ねって言ったら、びーびー泣きながら「かなしい〜」って言って、お、すげえ感情の発露、と思った話。「かなしいねえ」って言いながら抱っこして、僕はにこにこしていた。

そうだよ、悲しいときには悲しいっていいなね。ほかの言葉や理屈で塗り固めたっていいことなんか何もない。なるべくそのままを口に出せるようになってね。いつかあなたの「悲しい」をそのままの相似形で受け取ろうとしてくれる人がきっと見つかる。俺もなる。

 

末尾に子どもの話を絡めるとなんかいい感じの話に見える。これもレッテルでバイアスです。

昨日おれが、部屋干ししたタオルがほしいって泣いて、乾いてないから後ねって嫁に言われて、びーびー泣きながら「がなじい〜〜」って言ったら、嫁に「かなしいねえ」と言われた話だったら、お前はなんの話をしてるんだってなるものね。

俺はなんの話をしているんだ。

 

世界は楽しいですね。

みんな、きみのおかげだ。